晩秋

人間の証明

煙草を一本

煙草を吸おうと外に出たはずだった。

普段なら玄関のドアを開けるとすぐ目の前が一軒家の壁になっている。

いつもその壁を見ながら、または家と家の僅かな隙間から見える空を見上げて煙を吐き出すのが常だった。

しかしその日、眼前にあるのは果てしなく広がる黒い海であった。

 

何が起きたのか理解できず息をするのも忘れてただ呆然としてその黒い海を眺めるしかなかった。

しばらくして波の音と潮の匂いが徐々に身体に伝わってきて我に返る。

後ろを振り向いてみると玄関どころか自分の住んでいるアパートが跡形もなく消えている。

どこまでも闇が続いているだけだった。

また海に向かってみる。

足元を見ると、ゴミや石がひとつもない、非常に細かな粒子の砂地になっている。

空を見上げれば、驚くほど輝きの強い星が無数に瞬いているのだった。

星の集団が、天の川とはまったく違う、今まで見たことのない形を作っていた。

 

何かの拍子に別世界にでも飛んできたのだろうかと、不思議と冷静に考える自分がいる。

恐怖心はなかった。

うっとりするほど綺麗な星空と、穏やかな波の音に吸い込まれて、心地いい浮遊感のようなものを感じた。

 

手元にはライターと煙草が一本握ったままだった。

煙草に火をつける。

一口吸って驚いた。

手に持っていたのはいつものゴールデンバットだったはずなのに、まったく味が違うのだ。

パッションフルーツのような甘さと爽やかさが口の中に広がっていく。

煙を空に向かって吐くと、見慣れない星々がより一層輝きを増した気がした。

心地いい空間と美味しい煙草のせいか、このおかしな状況を考えようともしなかった。

 

ゴールデンバットは短い煙草だ。

それに加えあまりの美味しさにあっという間に火が消えようとしている。

すると、急に星空が暗くなっていくことに気づいた。

さっきまで燃えるように瞬いていた星々がひとつまたひとつと消えていくのだ。

この世界の唯一の灯が静かに消えていく。

煙草の火もフィルターぎりぎりまで吸って消えてしまった。

空には一切の灯が無くなった。

途端に心地よさも薄れていき大きな不安感がおそってくる。

ライターをつけようと試みたがまったく火がつく気配がない。

急に風が吹きだした。

波が強くなり足元を濡らしている。

二三歩下がったその瞬間、少し先の海で巨大な何かが飛び上がった。

暗闇の中でもその巨大な影だけははっきりと見えた。

クジラのような四角い頭をしている。

飛び上がった巨大な何かが海に落ちていく姿は、異様にゆっくりと感じられた。

巨体が海に打ちつけられる音が響く。

大量の海水がしぶきとなってこっちにまで降り注いできた。

私は目を閉じり両手を頭の上にかざした。

体が冷たく濡れていくのがわかった。

 

ゆっくりと目を開けると、いつもの隣の家の壁がある。

はっとしてすぐに周りを見渡すと、さっきまでの黒い海や星空は無く、私は自分の部屋の玄関先に立っていた。

手元を見ると、ライターと煙草を一本握っていた。