晩秋

人間の証明

女の子って

女の子は可愛い

女の子は良い匂い

女の子は柔らかい

女の子は楽しい

女の子はよく泣く

女の子はおしゃべり

女の子は笑う

女の子って

女の子って

 

髪の毛さらさらつるつるで

お化粧したりオシャレして

美味しいものには目がないし

ぷりぷり怒ってみたりして

 

女の子って美しい

女の子って美しい

 

男なんてつまらない

男はばかだしまぬけだし

女の子が大好きだけれど

男なんてそれしかない

 

女の子って美しい

男なんてつまらない

喫茶店

今日も昼頃に起床。

重い身体を無理やり起こして用を足す。

顔を洗い髭を剃る。

鏡に向かって睨みつけたりいびつな笑顔を作ってみたりする。

鏡に映るのはあまりに覇気の無い男だ。

 

冷蔵庫にあるものを適当に胃袋に放り込んで外出するために着替える。

外に出ると小雨が降っていた。

最近涼しい日が続いていたが今日は蒸し暑い。

電車に乗って下北沢へ。

 

行きつけの喫茶店へ行く予定だった。

そこは40年近く続く老舗であまり広くはない店内ではあるが

いつも店主の趣味であろうジャズが流れていて雰囲気がよく何より煙草が吸える。

もちろん珈琲も美味しくその質と立地の割には価格も安い。

下北沢駅を降りて真っ直ぐその店に向かい入り口のドアを開けると目の前に店主がいた。

「ごめんなさい。満席なんですよ」

店内は老若男女で賑わっていた。

「そうですか」

中に入ろうとして握っていたドアノブをそのまま引いてドアを閉めた。

思えば今日は土曜日だ。

人気店でもあるし満席は仕方がないが残念無念で来た道を戻る。

また駅前に戻ってはてとしばらく立ちつくす。

 

ネットで近くの喫茶店を調べるといくつも検索がヒットした。

すぐ近くに何やら良さげな喫茶店がある。

煙草も吸えるらしいのでそこに行くことにした。

 

ヴォルール・ドゥ・フルール(花泥棒は珈琲屋です)

 

以前にどこかで聞いたことがあるような気がしたが記憶が定かではない。

古着屋が並ぶ路地の一角にその店はあった。

ビルの二階が店舗になっていたので階段を上がってドアを開ける。

凛とした佇まいのマダムが迎え入れてくれ

入ってすぐのカウンター席に通される。

 

店内を見渡すと白を基調とした漆喰の壁にガラス窓が大きく開放感があって素敵な内装である。

カウンターも年季の入った厚い一枚板でいかにも良い喫茶店の味が出ている。

カウンターの向かいではマスターらしき黒縁丸メガネの男性が忙しそうに右から左と動いていた。

マスターの後ろの棚には色とりどりのコヒーカップティーカップが並んでいて眺めもいい。

 

メニューを受け取って驚いた。

珈琲一杯850円

その他のドリンクも一杯千円するものばかりだ。

事前によく調べていなかったとはいえ

こちらの喫茶店の常識の範囲を軽く超えるメニュー表であった。

一通り目を通した後

この店のオリジナルブレンド850円を注文した。

 

席の隣では私よりはるかに若いカップルが楽しそうに談笑している。

その若さでこれだけの値段のする喫茶店

さも当たり前のように振る舞うカップルは普段から余裕のある生活をしているのか。

デートだからとちょっと頑張ってそこに座っているのか。

注文した珈琲が出てくるまでそのことが気になって仕方がなかった。

 

マスターによって煎れられた珈琲が真っ赤なコーヒーカップとソーサーに移され目の前に出された。

金色に縁取りがされた真っ赤で小ぶりなカップはとても美しかった。

珈琲の香りがとても良い。

一口飲む。

しっかりした苦味と鼻に抜ける香りが豊かで美味しい。

値段がするだけのことはある美味しい珈琲だ。

バッグから本と煙草を取り出す。

坂口安吾全集の文庫とアークロイヤル

坂口安吾の文章はリズミカルでユーモアがあって

珈琲と煙草との相性とすればこれ以上の読み物はないと思う。

それから約一時間ほど本を読み煙草を燻らせ贅沢なひと時を満喫したのだった。

 

今日もただ珈琲を飲み煙草を吸い本を読んだだけの1日。

 

 

 

 

夢に逃げる

毎日特にすることも無いので睡眠時間が多くなる。

というよりやらなければいけないことは沢山あるのだが

その現実から目を背けて日々をやり過ごしているようなものだ。

寝ていればその間現実を見なくていい。

 

朝早くに目覚めることがあっても布団の中で目を閉じ再び眠りにつく。

その時それまで見ていた夢がどんな感じだったかを覚えているので

その夢の続きを見れるようにイメージしながら眠るのだが

ほとんどの場合成功して夢の世界の続きへとログインしていけるようになった。

しかし最近見る夢はたいてい何かの追っ手から逃げるものや誰かに叱られて困っているものだ。

 

現実から逃れたい意識が夢の中で具現化しているのだろう。

だからいつも寝起きはあまり気分がよくない。

それでも起き上がって部屋の中で独り今日を憂うよりはマシだろうと夢の世界へ逃げ続けるのである。

毎日明日こそは早く起きて活動しようと思ってはみるのだが

明日の自分にはいつも裏切られてばかりだ。

今週

7月も半ばになる。

未だ無職だ。

 

今週は月曜日にカメラマンの友達と昼から会うことになって、自宅から徒歩15分ほどのデニーズに行き昼食を食べ1時間ほどだべってその後私の家でしばらく休んだ。

家にいても暇なので渋谷に移動することにしていつもの喫茶店へ。

そこで珈琲を飲みながらくだらない話をしていたがまた暇になってきたので女友達を呼ぶ。

たまたま仕事が休みだった彼女が合流して宇田川カフェへ。

そこでビールやらカクテルを注文して2時間ほどいろんな話をした。

 

特に盛り上がったのは彼女の好きな人の話。

彼女は現在恋人募集中であり好きな人が2人いるらしい。

好きな人2名を仮にAとBとする。

Aは同い年で月に数回デートを重ねる仲らしい。

Bは年下で数ヶ月に一度会うくらいだという。

Bには好意があることは伝えておらず友達としてたまに遊ぶ関係。

しかしAには好意を伝えているが向こうがはっきりとした答えをくれずそのままズルズルと微妙な関係が続いているようだ。

彼女は付き合える可能性があるAとうまくいけるようにしたいがAの気持ちがわからないということで悩んでいた。

ここで私からすればそれはただ遊んでセックスをしたいだけの関係なんじゃないかと思い彼女に訪ねたがセックスはしていないらしい。

Bともそうだと言う。

珍しく清い男女たちだ。

あれこれと3人で恋の行方を議論したが私とカメラマンとしては

「会ってもセックスもしないしハッキリした答えも出さないAの思考は理解できない」

という結論に至り彼女にとって何も収穫の無い議論で終わった。

彼女は今度またAと会う約束があるのでそこで気持ちを伝えてダメなようならば諦める、と言っていたので良い結果であることを願う。

 

終電近くになって解散。

久しぶりに楽しい1日だった。

 

友達と会って話すのは精神衛生上とてもいい。

普段は憂鬱で無気力な毎日なのにその日から今日までなんだかいつもより前向きな気分だった。

そのおかげか今日は気になる求人広告をネットで調べたりなんかした。

今までは求人広告を見るだけでも拒否反応のように気分が悪くなり頭が痛くなっていた。

非常に情けない。

現実を直視することを拒んでいたのだ。

現状を変えたい思いは常にある。

この体調が続けば近いうちに本格的な就職活動ができそうな気がする。

行動を必要なときに考えすぎて身動きが取れなくなるのはいつもの悪い癖だ。

あまり考えず、行動あるのみ。

 

毎日死にたい気分ではあるが、

とにかく私の人生を台無しにした鬱を殺してやりたい。

やるかやられるかだ・・・

無職がウィーアーリトルゾンビーズを観た

stage 1 - きっかけはつけっぱなしのラジオ

生きてるくせに、死んでんじゃねえよ。
これは映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』のポスターに書かれているコピーの文章だ。

この言葉が目に止まった。
まるで今の自分に言われているようだった。

現在私は無職だ。
怠惰で自堕落な生活を送り、毎日暇を持て余している。
無職になってから、生きてんだか死んでんだかよくわからない、
ひどく憂鬱な日々を過ごしてきた。
その日もただベッドに横になって、
枕元にある中国製の小型ラジオから流れてくる音楽や人の声をなんとなく聴きながら虚空を見つめていた。

 

きっかけはつけっぱなしのラジオから流れてきた曲だった。
ファミコンから出てくるような音や少年の抑揚の無い歌声、
自分たちはゾンビだという悲観的な歌詞、
ポップでへんてこなロックに耳を奪われてすぐにラジオの音量を上げた。
いい曲だと思った。

 

曲が終わるとラジオパーソナリティが語りだした。
どうやらこの曲は映画の主題歌で、その映画は近日公開するらしい。
気になってネットで調べると、派手なポスターの画像が出てきた。
そこには毒々しくカラフルで8ビット調に描かれた映画のタイトルと出演者たちが並んでいた。
タイトルの上には小さく
「生きてるくせに、死んでんじゃねえよ」
と書いてある。

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そのコピーとラジオから流れてきた曲に心動かされ、
映画の公開日、事前にネットで予約していた映画館に出かけることにした。

 

 

映画の主役は両親を亡くした4人の子供たち。
悲しみの心が無く、まるでゾンビのように感情を無くした子供たちだ。
その子供たちがバンドを結成し、
音楽を通して心を取り戻していく。
カラフルでポップで、
現実と非現実が入り混じり、
テンポよく疾走感があった。
物語がファミコンRPGのように進んでいくのも面白かった。

 

気がつけばあっという間にエンドロールが流れていた。
映画を観終わっての感想はシンプルに
「最高だ!こりゃ傑作だ!!」
であった。
久しぶりにいい映画を観て気分が高揚した。
あまりの興奮に帰りの電車の中でも心ここにあらずで、
抑えきれない感情やその他むにょむにょを帰宅して即こうして文章にしている次第だ。

 

stage 2 - ラスボスはどこだ


「人生ってRPGみたいなものだよね」なんてことはよく聞く話だが、
現実の人生はRPGのようにワクワクするような冒険活劇ではない。
誰もが勇者ではない。
やり直しのリセットはできない。
セーブポイントはない。
魔法は使えない。
4人の子供たちにとって、ラスボスを倒したら両親が生き返るなんてこともない。

 

ヒップホップグループ”RHYMESTER”の「The Choice Is Yours」という曲がある。

www.youtube.com

この中でMummy-Dは次のように歌っている。

Yo

腐ったマネー 腐った官僚 腐った政治家に大企業

腐った国家 日本株式会社 ヤツらが悪い オレは被害者

大人が悪い 子供が悪い ゆとりのせいで アタマが悪い

教育が悪い 行政が悪い 巡り巡って 大人が悪い

じゃ、悪い大人を代表し 言ったろう禁忌(タブー)を解放し

この世界はそんな単純じゃないんだ ラスボスはどこにもいないんだ

 

映画の中でも誰かが言っていたが、そもそもラスボスなんてこの世にいないんだ。
4人の子供たちの旅には目的が無い。
たまたま両親を亡くした子供4人が集まっただけだ。
しかし4人は新しい世界を求めて、あてもない旅に出た。

 

 

物語はそれぞれの家庭の話になり、4人の家を順々に巡ることになる。


どんな家庭環境で、どんな両親だったか。
(そこで両親の死因もわかることになる)
どの家庭もなかなかにクセのある家庭ばかり。
それぞれの家を巡るうちに、中華鍋やベースといったアイテムを手にいれる。
後のバンド結成のためのキーアイテムだ。


そして流れ着いたゴミ捨て場では浮浪者たちが音楽をやっていた。
何かを感じた4人はバンドを結成することにする。


ヒカリ(ボーカル)
イシ(ドラム)
タケムラ(ベース)
イクコ(キーボード)


音楽というひとつの希望を見つけたのだ。

 

スクリーンでは彼ら4人のバンドが歌い出した。
ラジオで聴いたあの曲だ。
カラフルな電飾をバックにゴミから作ったバンドセットで掻き鳴らすロック。
浮浪者たちが自転車や健康器具のペダルを漕いで電気を生み出している。
さながらサイバーパンクのような画だった。

 

「ウィーアーウィーアーリトルゾンビーズ!」
4人はシャウトする。
エモいロックだった。
(エモいとか、ダサっ)
カタルシスがあった。
この映画を観に来てよかったなあ、なんて考えていた。

 

stage 3 - 「ダサっ」の一言を考える 

彼らは口癖のように「ダサっ」という言葉を使う。
ダサい
と言われるとなんだか自分は間違っているんじゃないかと不安になったり、
恥ずかしいような気になる。


例えば悪口を言われるとして、
バカとかアホとか死ねとか言われるよりも、
ダサい
と言われる方が嫌ではないだろうか。
少なくとも私はそうだ。

 

センチメンタルに浸っているとき、
自己憐憫に酔っているとき、
「ダサっ」の一言ではっとなる。
自分だけの世界から現実に戻されるような、
さっきまでの自分がたしかに滑稽でダサいんじゃないかという気になってくる。
途端にそれまでの悩みや苦しみも、
「ダサっ」の一言で片付けられるような気さえもしてくる。

 

彼らは常に自分たちのことを他人事のように話す。
客観的に自分を見ているように、感情的に話すことは無い。
それは「ダサっ」の精神で自分を守っているのではないだろうか。
あまりに残酷な現実に、いちいち感情を左右されていては、心が持つはずがない。


「ダサっ」の一言は強い。
「ダサっ」の精神は強い。

 

stage 4 - ”何もない”のその先へ

 

彼らの曲はSNSによって”バズ”り、
プロのバンドとしてデビューすることになる。


すぐに同世代の人気を獲得しスターになっていくのだが、
短い活動期間でバンドは解散となってしまう。
彼らはまた途方に暮れることになる。


両親は死んでいない、バンドも解散した、希望もない。
そんな絶望的な彼らの目の前に、
次のようなコマンドが現れる。

 

コンティニュー
 Yes
 No

 

ゲームで言うところの、リセット画面だ。
ゲームであれば、失敗したりやり直したいときにこの画面が出てくる。


4人にとってはつまり、
ゲームを続けるか(人生を続けるか)
ということになる・・・

 

バンドを結成する前、
それぞれの家庭を巡っていたときに、
イシが父親と中華屋の裏で会話するシーンがある。


イシの父親は自分の経験を例に出して”強さ”とは何かを息子に語る。


「強いって、自分で決められる人のことを言うんじゃないかな」


自分は流されて生きてきただけで、
人生の岐路に立ったとき、
自分で何かを決断したことがないと言うのだ。

 

話は戻って、目の前に現れたコンティニュー画面。


選択を迫られている。
”Yes”か”No”はつまり、”生きる”か”死ぬ”かだ。
ヒカリはたじろいでしまい、3人にどうするか尋ねる。
そこでイシが言うのだ。

 

「それは自分で決めなよ」

 

イシは父の言葉を覚えていたのだろう。
強さとは、自分で決められること。
イシの一言によってヒカリは決断する。

 

コンティニュー
▶︎Yes
 No

 

ヒカリは、そして4人は、

ゲームを続けることを選んだ。


生きようと自らの意思で決めたのだ。

 

final stage - 君は雫か、キキか

 

イクコはいつもインスタントカメラを持ち歩いている。
様々な場面でそのカメラを構えシャッターを切る彼女が印象的だった。
そんな彼女にヒカリがこのように尋ねるシーンがある。


「そのカメラ、現像しないの?」


イクコは答える。


「現像はしない」
「現像したら思い出になるじゃん」
「”今”って思った瞬間にシャッターを切るのがいいんじゃん」


イクコにとって大切なのは常に”今”だった。
”今”にしか興味がないらしいのだ。

 

 

スタジオジブリのプロデューサーに鈴木敏夫という人がいる。
宮崎駿高畑勲と共にスタジオジブリを作り、
数々のヒット作を世に送り出してきた人物である。

 

その鈴木敏夫がやっているラジオ番組があり、

私はそれのヘビーリスナーなのだが、

鈴木敏夫がことあるごとに語る話がある。

www.tfm.co.jp

 

「人間には2種類のタイプがいる。
 耳をすませばの雫のようなタイプか、
 魔女の宅急便のキキのようなタイプか」

 

鈴木敏夫によれば2人の主人公はまったく正反対の生き方だという。


雫とキキ、どちらが好きかで、
その人のタイプ、その人の価値観が決まる、ということらしい。

 

イクコのカメラに対する価値観がわかるシーンを観たとき、
このエピソードを思い出したのだ。

 

小説家になろうと決意した雫は、自分の夢に向かって努力するタイプ。
一方で、生まれ持った魔女の能力を生かして宅急便の仕事をするキキは、
与えられた仕事を一歩一歩着実にこなすタイプ。


「僕はね、キキが好きなんですよ」
鈴木敏夫は言う。

 

鈴木敏夫は大学卒業後、大手出版社で記者として働いていたのだが、
あるきっかけでアニメ雑誌の編集に左遷されてしまう。
そこで仕事をする中で宮崎駿と出会い、
いつのまにか会社を作ることになり、
現在では日本を代表するプロデューサーになっているのだ。


「今、ここ。
 目の前のことに一生懸命になっていれば、開ける未来もあるんじゃないか」


自身の経験から、そんなことを学んだんだと鈴木敏夫は何度も語っている。

 

鈴木敏夫がなぜこの話をよくするかというと、
”今”目の前にあることに集中して頑張ることの大切さを、
伝えたいからではないだろうか。

 

イクコの価値観も、常に”今”だ。


夢や希望を持つことは悪いことではないが、
誰しもが持てることではないし、
夢や希望が無くたって、今を精一杯生きていれば、
思いがけない未来が待っているかもしれない。


「本当にやりたいことや、やるべきことは、他にあるのではないか」


などとくよくよ悩むよりも、”今”を生きよう、と前向きになれることを、
イクコのシーンによって思い出し、改めて実感したのだった。

 

ending - WE ARE LITTLE ZOMBIES


最後のシーンでは、彼ら4人が草原の中をそれぞれ別の方向に歩み出す。

ゲームを投げ出したくなるようなストーリーだったかもしれない。

それでも生きていこうと、ただ今を生きようと、

それぞれの人生に向かって歩み出す姿は、

もはやゾンビではなかった。

 

RPGはハッピーエンドがお決まりだ。

救いがなければいけない。

そうでなければ、プレイするに値しない。

彼らの未来もきっと、ハッピーエンドになるはずだ。

自分で決められる”強さ”を持っているのだから。

映画のラストが「ダサっ」くなくてよかった。

 

最後に、

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である」

という、喜劇王チャールズ・チャップリンの言葉を置いておく。

 

littlezombies.jp

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